ヨガにおける5つの障害〜煩悩 kleśaクレーシャについて①

ヨガスートラに

それらは、障害を最小にして、三昧を達成させる”

とあります。

三昧(さんまい)とはサマーディSAMADHI※のこと。

仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいいます。

ヨガスートラにおける三昧は、心が動揺することない一定の状態が客体のみになり、自体は空っぽになったような状態であるといわれています。

ここでいう障害とは、5つの煩悩のことを指します。

無知

我想

執着

憎悪

生命欲

この5つの煩悩は、挙げられる順序も理解を深める上で大切です。

まず、自己への無知から我想(エゴイズム)が現れます。

ヨガスートラにはこのように書いてあります。

“無知とは、無常を常、不浄を浄苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすこと”

無知とは、どういうことなのでしょうか。

最も基本的な無知、

それは

本来の自分以外を自分とみなすこと。

これについては、詳しくは下の記事に書いてあります。

わかりやすいヨガ哲学  本来の自分

わかりやすいヨガ哲学②

では、無常は常、不浄を常、苦を楽とは?

まず、辺りを見廻してみましょう

例えば、壁や床

一見、変化していないようにみえますよね。

しかし、物質世界全てのものは変化しています。

汚れや経年劣化、空気にふれているだけで酸化や腐敗もします。

人の心ですら絶え間なく変化します。

常の無い世界に常があると思うこと。

今、持っているものや人との繋がり、事柄に至るまで、それらに囚われる事は人を苦しめることになります。

しかし、私たちは変化するものであっても変わらぬ実在とみなすことに慣れています。

どんなものであろうとも、もしそれが変化するのであればそれは本来の自分ではあり得ません。

例えば、私たちはしばしば

「私はひどい病気だ」

などと言ってしまいます。

本当は誰が病気なのでしょうか?

もし、それがガンなのであれば

身体がガンなのであって、

あなたがではありません。

この真理を忘れてしまう時、心は外の世界に巻き込まれます

それは身体だけでなく、心についてもやってしまいます。

「私は幸せです」とか「私は悲しい」などと言ってしまいます。

幸せと思うことも恐ろしい、悲しいと思うことも全て心の作用

あなたの心がそう感じるのであって

あなたがではありません。

長い人生において

私たちのもとには、たくさんの出来事がやって来たり、去っていったり…

しかし、私たちはそれと繋がっていないことがわかります。

ヨガは何の為にあるのか…

人は真っ暗な闇の中では、何も見えません。

しかし薄暗い所にいる時に限って、トグロを巻いたロープを蛇と見間違えたり、リアルなぬいぐるみを本物と間違えたり。

光さえあれば、私たちは間違えることはありません。

ヨガは、光を得た人のためのものでもなければ、何も知ろうとしない完全な無知の人のためにあるものでもありません。

その境目にいる人のためにあります。

この無知を払い去るためにヨガはあります。

☆次回は我想(エゴイズム)について

カテゴリー ヨガ瞑想yoga哲学未分類仏教タグ

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